二宮金次郎 | 栃木Information | 志賀高原を歩く | 磐梯・安達太良山を歩く  | メール  | 相互リンク 
【歩く地図でたどる日光街道】越谷鍛冶忠商店 日光街道TOP
地図INDEX
初めて歩く人のために
街道用語 
旅行用心集
東照宮から奥日光へ  
【歩く地図でたどる日光街道】杉並木街道
地図でたどる日光街道TOP > 二宮金次郎 > 蓮田市 平野小学校
二宮金次郎 埼玉県 蓮田市立平野小学校
埼玉県
 加須市  志多見小学校  水深小学校  大越小学校  樋遺川小学校  不動岡小学校(台座)  礼羽小学校  北川辺西小学校
 春日部市  幸松小学校  南桜井小学校  富多少学校  宝珠花小学校  豊野小学校  満蔵寺  春日部温泉
 幸手市  吉田幼稚園  権現堂川小学校  幸手小学校  上高野小学校
 松伏市  松伏小学校
 杉戸町  泉小学校
 久喜市  桜田小学校  鷲宮小学校
 蓮田市  平野小学校  黒浜小学校(台座)



二宮金次郎像を調べてみよう
道路に面した正門入口左にあり、昭和15年12月石で製造。
身長92p、股下40p、胴回り62p、足17p、手13p。
@小学校低学年の顔をしている。目は閉じて前方をむいている。武士の髪型をしている。
A本には何も書かれていない。本の厚さ3.5p。右手は肩紐、左手は本をもっている。
B左足が前に出ている。歩幅(つま先間の距離)24pでぞうりを履いている。切株はない。
C薪は1本500gm×14本で合計7kgを背負っている。斧はもっていないが印籠はもっている。薪はひとかたまりに積み重ねてある。薪の高さ28.5p、横幅25p、奥行き16p。
D着物の裾は出さず、もんぺをはいている。
E平地を歩いている。
F台座の高さ103p、奥行き107p、幅107p。台座の正面に何か書かれていたが消されている。両側面には何も書かれていない。背面には昭和十五年十二月、関口和三郎・関口平太郎・関口豊吉と寄贈者の名前が刻まれている。

 二宮金次郎は天明7年(1787)小田原市栢山に生まれ、安政3年(1856)に栃木県今市でなくなりました。二宮金次郎というとたいていの小学校の校庭に銅像がありましたので、殆どの日本人なら知っていると思いますが、生涯にどのようなことをし、どのような教えをしたかを知る人は少ないと思います。
 二宮金次郎は天明7年(1787)に小田原市栢山の裕福な農家に生まれ、安政3年(1856)に栃木県今市で70歳で亡くなりました。生まれた頃は裕福でしたが、川の氾濫で田畑を失い、お父さんは金次郎が14歳で、お母さんは16歳の時に亡くなりました。
 そこで叔父さんに預けられるのですが、ある夜 明かりをともして本を読んでいると叔父さんに怒られたのでした。「お前は誰のおかげで飯を食っているのだ。油がもったいない。」というのです。
 金次郎は今度は空き地に菜種を植え、出来た菜種と油を交換して本を読むのですが、また叱られるのです。お前の時間は俺の時間だ。お百姓に学問はいらないというのです。それから始まったのが、薪を背負い歩きながら本を読む姿なのです。
 やがて金次郎は叔父さんの家から独立し、実家の再興に取り掛かりました。そして勤勉と倹約に努め、24歳で以前のような裕福な家に再興しました。それを知った小田原藩士服部家に財政の建て直しを頼まれ、これも成功する事が出来ました。それが広まり今度は小田原藩の分家にあたる桜町領(栃木県二宮町)の再興を頼まれたりして、生涯に615の村々を立て直したといわれています。
 金次郎は桜町領を再興するときに、武士の位を授けられ二宮尊徳となりました。このことは身分差別の象徴だと言う方もあると聞きましたが、二宮金次郎がそういう時代に生きていたということで、生涯にどういう業績を残したとか、どのようなものの見方考え方をしたかという事とは違うと思います。むしろどのようなことを人々に説いたかということが大事ではないかと思います。
まず 勤労、分度(倹)、推譲を人々に勧めました。
 勤労とは 徳に報いるために働く、
 分度とは 収入の範囲内で支出を定めること
 推譲とは 勤労、分度をしてたまった物を将来のために残したり、人に及ぼしたりする事。
また「積小為大」「五常講」を人々に説きました。
 積小為大とは小をつんで大と為すということです。
 五常講とはお金の貸し借りの旋回の過程で、「仁」のこころをもってそれぞ れの分度を守り、多少余裕のある人から困っている人にお金を推譲し借りた 方は、「義」の心をもって正しく返済し、[礼」の心を持って恩に報いるため に冥加金を差し出すなど心を配って人に接し、「智」の心をもって借りた金 を運転し、「信」の心を持って約束を守る、すなわち「仁義礼智信」の「人 倫五常の道」を守ろうというのである。(童門冬二 「二宮金次郎」)

蓮田市立平野小学校 〒349-0135  埼玉県蓮田市井沼937番地   
TEL】 048(766)1308 【FAX】 048(766)1050
http://homepage2.nifty.com/hirasyo/index.htm
e-mail: aek06552@nifty.com
蓮田市立平野小学校は
校地面積 12,255u
運動場面積 5,020u
沿革の大要
 ・明治9年4月15日  上平野小学校創立
 ・明治22年4月1日  平野小学校と改称
 ・大正10年9月24日  校旗制定
 ・昭和3年      校歌制定
 ・昭和16年4月1日   平野国民学校と改称
 ・昭和22年4月1日  平野村立平野小学校と改称
 ・昭和29年5月3日  蓮田町立平野小学校と改称
 ・昭和44年3月3日  校歌制定
 ・昭和47年10月1日  蓮田市立平野小学校と改称
 ・昭和51年2月28日  体育館完成
 ・昭和51年3月7日  開校百周年記念式典挙行
 ・平成3年3月10日  プール全面塗装
 ・平成7年4月15日  開校120周年
 ・平成10年11月27日 県委嘱同和教育研究発表会
 ・平成12年2月24日  特別教室工事完了
 ・平成12年6月17日  本校舎耐震工事起工
 ・平成15年11月   国語科研究発表会
 ・平成18年4月15日  開校130周年
 ・平成21年10月29日 体力向上研究発表会
 ・平成23年1月311日 給食棟完成
 ・平成23年10月20日 算数科研究発表会
 ・平成24年10月31日 体育館耐震補強工事完了

※二宮金次郎像を見学する場合は、学校の許可が必要です。授業中や学校行事が行われているときは見学できません。
 あらかじめ、許可を取って見学して下さい。

 蓮田市は埼玉県の東部、中心地は海抜15.8m、東経139度39分56秒、北緯35度59分27秒に位置し、東西約4km、南北約15km、総面積27.27平方kmの細長い形をしています。
 江戸時代、蓮田には見沼代用水が引かれ、稲作が盛んでした。更に明治時代に蓮田駅が完成したことで大きく発展しました。そして昭和47年(1972年)10月1日に、市制を施行しました。平成27年(2015年)には、地下鉄7号線の開業が予定されており、大きな期待がよせられています。
現在、蓮田市は都心からわずか40kmの圏内にありながら、元荒川や黒浜沼など豊かな自然環境に恵まれています。また、明治時代に平野地区で栽培が始まった特産物のなしは、大きくて甘いと評判が高く、埼玉県で第3位の栽培面積を誇ります。

【歩く地図でたどる日光街道】リンク用バナー
【リンクについて】
当サイトへのリンクは自由です。上記リンク用バナーをご利用ください。
ただし、リンクサイトのホームページの内容が法律や公序良俗に違反している場合は、リンクをお断りします。
なお、当サイトは予告なくページの変更または削除することがあります。
相互リンクは、こちら からお願いいたします。
【免責事項】
当サイトからリンクを設定しているサイトの内容は、各ホームページ管理者の責任で管理・運営されているもので、
それぞれのリンクサイトの掲げる使用条件に従って利用下さい。
【歩く地図でたどる日光街道】
http://nikko-kaido.jp/
mail JZE00512@nifty.ne.jp
制作・著作:風になりたや(浜田輝雅)
Copyright(C)2010-2013 nikko-kaido All Rights Reserved.
このサイトの文章・画像、地図は著作権で保護されていますので、無断転用、転載はご遠慮下さい。
但し、個人で使用する場合は、その範囲ではありません。しかし、会社や団体等で使用する場合は連絡下さい。
ご利用される場合、内容の加筆や削除はご遠慮下さい。
ご意見や記載内容についてご意見があればお聞かせ下さい。