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宇都宮IC〜日光湯元温泉へ
宇都宮IC  
東北自動車道宇都宮ICから日光宇都宮道路へ入り、日光へ。 「日光宇都宮道路」は日光と宇都宮を結ぶび、いろは坂手前の清滝まで30,7kmの自動車専用道路です。昭和51年(1981)に全線が開通しました。

徳次郎IC
宇都宮ICと徳次郎ICとの間はわずか1.6kmしかありませんので、とても短い区間です。 徳次郎ICは国道293号線と結ばれており、ICを右手に行くと、さくら市の一部となっている氏家を通って那珂川町方面へ行きます。
反対側の左に行くと、鹿沼市方面へ行き、その途中に、農林公園ろまんちっく村や田気不動尊、大谷石で有名な大谷地区があります。
※土地では「トクジラ」とよぶ人もいます。

徳次郎ICを右、氏家方面に行くと現在国道119号線となっている昔の日光街道と交差しますが、そのあたりは、かっての徳次郎宿があったところです。
徳次郎宿は日光街道の江戸から数えて18番目の宿場で、本陣・旅籠やそして遊郭などもあり、たいそう栄えたそうです。  隣の宇都宮宿は奥州街道との分岐点ともなっていたため、参勤交代の時、奥州各地の大名が宿泊地とすることが多かったそうです。
大名の一行と一緒になると、一般の旅人は何かと制限されたので、それを避けた旅人たちは、徳次郎宿に泊まりました。徳次郎宿はとても賑わったそうです。
戊辰戦争のとき、ほとんどの宿は焼き払われたので、今ではその面影は残っていません。

智賀津神社
この日光宇都宮道路の少し右側を並行して日光街道があります。
日光街道沿いには、智賀都神社という二荒山神社の分家のお寺があります。
智賀津神社は奈良時代末宝亀9年(778)に創建されたと伝えられる古いお寺で、その鳥居のそばには樹齢約700年といわれる大きなケヤキの木が二本仲良く並んでいます。徳次郎3宿の総鎮守。
夫婦(めおと)ケヤキと呼ばれ、栃木県の天然記念物に指定されています。

宇都宮県立自然公園
左に山並みが宇都宮県立自然公園に指定されています。
宇都宮県立自然公園は宇都宮市の西部にそびえる標高583mの古賀志山(こがしやま)の東側に広がる約20平方qの県立公園です。
園内には大谷石の里として知られる大谷地区も含まれ、大谷観音のある大谷寺の平和観音などもあります。
宇都宮県立自然公園の向こう、西側を、JR日光線と東武日光線、かっての日光例幣使街道が南北に走っています。

日光街道
右側を並んで走っている日光街道は、東海道・甲州街道・中山道・奥州街道とともに五街道のひとつとして、江戸幕府によって設けられた街道です。
ほかの四つの街道が江戸と、ほかの地域との政治や経済上の目的で整備されたのに対し、日光街道は日光東照宮への参拝の道としてわざわざ設けましたので、幕府がいかに日光東照宮を重要なものとしていたかがわかります。
江戸日本橋を起点として宇都宮までは奥州街道と同じ道で、その間には17宿が設けられていました。
そして宇都宮から日光までは徳次郎・大沢・今市・鉢石の四宿がありました。現在東京から宇都宮までの区間は国道4号線、宇都宮から日光までの区間は国道119号線となっています。

日光杉並木街道
杉並木街道は、日光ばかりでなく日光に通じる例幣使街道や会津西街道の杉並木がある区間を総称して、日光杉並木街道と呼んでいます。
日光杉並木街道は、延べ約34qにわたって樹齢300年以上の杉の老木を連ね、その数は1万3千本以上あり、国の特別史跡及び特別天然記念物に指定されています。
杉並木は、武蔵国の川越藩主・松平正綱(まさつな)と息子の信綱(のぶつな)によって日光東照宮に寄進(きしん)されたものです。
東照宮がつくられた際、各大名達は高価な灯籠や太刀などを競って寄進し、杉の苗木を寄進した松平親子は貧乏大名といわれたそうです。凡人には松平親子の先見の明が解らなかったのでしょうね。
松平正綱と信綱親子は寛永2年(1625)から20数年をかけて、紀州の熊野地方から取り寄せた20万本以上にものぼる杉の苗木を植樹させたのです。ということは1年で約1万本、1日で30本近い苗木をコツコツと植えました。
苗木は見事に育ち、夏の暑い日射しや、冬の冷たい風雨から旅人を護るようになり、さらに街道にすばらしい景観を演出したのです。
その植樹を記念する杉並木寄進碑が、今市の市街地や大桑地区、日光の神橋のそばなどにあります。

日光連山展望
前方に高い山並みが日光連山です。
富士山のような円錐形の山が、日光のシンボルとなっている男体山(2,484m)です。
中禅寺湖の北側にそびえていて、黒髪山あるいは二荒山(ふたあらさん)とも呼ばれています。
男体山の右手(北東)に連なる山々は女峰山(にょほうさん)(2,463m)を主峰とする表日光連峰といいます。標高は2000mを超えています。

日光市
(徳次郎ICから約4q)
宇都宮市から日光市に入ってきました。
日本有数の観光地、日光を擁する日光市は、旧日光市を中心にして、杉並木の多く残る今市市や、銅山で有名な上都賀郡足尾町、鬼怒川温泉のある塩谷郡藤原町、平家の落人集落として知られる
塩谷郡栗山村の二市二町一村が大同合併して、平成18年(2006)3月、新しい日光市として生まれました。市役所本庁は旧今市市役所に置かれています。
人口は約87,582人。面積は約1,450平方q。栃木県北西部一帯を占め、高山・浜松市に次いで全国で3番目に広い市となっています。(平成26年8月現在)
とにかく広いうえに、構成する旧市町村には、それぞれ、独自の歴史・文化と、すばらしい景勝地があり、新しい日光市は、日光地方とか、日光地域と呼んだ方がよろしいのではないかと思われるほどさまざまな顔をもっています。

旧日光市(日光)
日光というとやはり旧日光市を思い浮かべます。
「日光を見ずして結構というなかれ」という言葉はあまりにも有名です。
日光は建築美の粋を誇る東照宮をはじめ、輪王寺・二荒山神社などの寺社仏閣、中禅寺湖や湯ノ湖などの湖、華厳滝や霧降滝など多くの美しい滝、湿原植物の宝庫として知られる戦場ヶ原、高山植物の花園・霧降高原そして男体山や日光白根山などの山々と数え切れないほどの見どころがあります。
 
大沢IC
(日光市に入って3qあまりで大沢IC)

大沢御殿
ICの北1qほどの所には、日光街道の宿場町として栄えた大沢の宿があり、そこには大沢御殿跡があります。
江戸時代、日光参拝の徳川将軍がお休み処として利用していました。

JR日光線
(大沢ICから約3.5qでJR日光線、さらに500mほどで東武日光線)
まもなく、JR日光線を越えます。JR日光線は、宇都宮と日光の間を結び、延長は約40.5kmくらいあります。

東武日光線
続いて超える東武日光線は、東京の浅草と日光を結び、日光や鬼怒川方面、さらに奥会津方面へ運転しています。
平成18年(2006)3月18日からは、新宿からJR線を使い、池袋大宮を通って、埼玉県栗橋で東武日光線に相互乗り入れしています。

日光例幣使街道
東武日光線を越えてすぐに交差する道路は、国道121号線の例幣使街道です。
江戸時代、日光東照宮の春の大祭には、朝廷から勅使が派遣されるのが習わしで、その勅使を例幣使と呼んでいました。
例幣使一行の通る道が幕府によって整備され、日光例幣使街道とよばれ、中山道の倉賀野宿(高崎市倉賀野)と日光街道の今市宿とを結んでいます。
例幣使の一行は50名程度戸で、毎年旧暦の4月1日に京都を出発し、中山道を経て日光例幣使街道を通って15日に日光に到着することに決まっていました。倉賀野から今市までの例幣使街道の行程は4泊5日でした
日光例幣使街道は、今市の市街地で日光街道に合流しますが、その手前は杉並木になっています。
日光街道と日光例幣使街道との合流地点には追分地蔵尊があり、ます。

今市
今市は、平成18年(2006)に日光市と合併するまでは日光市といい、宇都宮と日光の中間に位置しています。
今市は、戦国時代には今市七軒と呼ばれた寒村でしたが、今から四百年ほど前の元(げん)和(な)年間(1615〜24)に日光の東照宮が造営された頃から賑わいはじめ、それからは、日光街道・例幣使街道、会津西街道の三つの街道が合流する宿場町として発展しました。
江戸時代は、今市に大木戸という門があり、そこが日光の神領の入口となっていました。
東照宮への参拝者は大名も含めて全員が、大木戸でお清めを受けてから、日光へ向かいました。
そして今市は宿場町だけでなく、木材や木炭・お米などが集まる市場町としても発展しました。
交通の要衝として発達した今市は現在、新しい日光市の市役所本庁が旧今市市役所に設けられています。日光や鬼怒川などの観光地への玄関口にあたり、それらの観光地への物資の供給地ともなっています。
産業としては稲作や野菜栽培・養鶏・乳牛の飼育などの農業が盛んなほか、木材の集散地となっていて製材業や建具製造なども行われています。
そばの栽培も盛んで、毎年3月には「全日本手打そば早食い選手権大会」を開いています。
そのほか、杉の葉を原料とするお線香が今市の特産品として大変有名です。

二宮尊徳と今市
今市は二宮尊徳ゆかりの地として知られています。
薪を背負って本を読んでいる二宮金次郎さんの銅像が小学校によくありました。
数々の苦労と努力の末、小田原藩の役人となり、さらに府の農業政策の専門家となった尊徳さんは、この日光地方の開拓にもたずさわりましたが、病におかされ、安政3年(1856)この今市の報徳役所で70歳の生涯を終えました。
今市市街地には、尊徳さんのりっぱな功績をたたえた報徳二宮神社があります。
報徳二宮神社の隣には、尊徳さんの葬儀が行われた如来寺というお寺があります。
如来寺は、徳川三代将軍家光が日光参拝の時宿泊するため、りっぱな御殿が建てられました。

今市宿一縁ひろば
今市の市街地、日光街道沿いには、観光協会の案内所のある今市宿一縁ひろばがあります。レンタサイクルなどがあります。 毎年3月に行われる「全日本手打そば早食い選手権大会」の会場にもなっています。

(大沢ICから8.6q)
今市IC、鬼怒川温泉方面への道
今市ICを通過いたします。ICを下りて右へ少し行くと今市の市街地に入ります。
市街地の中心部からは、国道121号線の会津西街道が北へと延びており、鬼怒川温泉・竜王峡・川治温泉を経て、福島県の南会津地方へと通じています。

(大沢ICから約2q。21.8qポスト)
日光口PA
日光口PA前を通過いたします。日光口PAは標高471m。日光杉並木まで歩いて約15分で行くことができます。5月下旬に日光で一番早いニッコウキスゲが咲きます。
右に並行して走る国道119号線沿いには見事な杉並木が続いています。
道路正面右から赤薙山(2010m)、女峰山(2464m)、小真名子山(2323m)、大真名子山(2375m)、男体山(2484m)をよく見ることができます。

前日光県立自然公園
左、山の向こう側一帯は、古峰神社や賀蘇山神社・日光ハイランド牧場・小峰ヶ原湿原・井戸湿原などのある前日光県立自然公園になっています。

(今市ICから4.9q)
日光IC
やがて、日光の玄関口となっている日光ICを通過します。
ICを出て右に行くと杉並木があり、左に行くと東照宮、輪王寺、二荒山神社のある日光山内があります。
また、ニッコウキスゲで有名な霧降高原も行くことができます。

日光IC〜清滝IC
日光ICを過ぎ、日光宇都宮道路の西側の起点となっている清滝ICへ向かいます。
この区間は、日光市街地の南側にそびえる神ノ主山(842m)と鳴虫山(1,104m)の麓をトンネルにして、宇都宮IC〜日光ICより遅れること5年、昭和56年(1981)に開通しました。
この区間の開通で、日光市街地の混雑がなくなり奥日光へ直接行くことができるようになりましした。

鳴虫山
神ノ主山トンネルと小さなトンネルに続き、鳴虫山トンネル(956m)に入ります。
このトンネルの南にそびえる鳴虫山は、ヤシオツツジの大群落があります。また、頂上からの眺めがすばらしく、日光の街並みや日光山内が箱庭のように見渡せます。
また、鳴虫山は天気予報の目印となっており、山に雲がかかり西の方へ霧が流れていくと雨になり、反対に東の方、今市側に霧が流れると晴れるといわれています。

含満ヶ淵
鳴虫山トンネルを抜け、すぐ右下を大谷川が流れています。
川の向こう岸には、日光田(た)母(も)沢(ざわ)御用邸記念公園や日光植物園があり、大谷川には、含満ヶ淵があります。
男体山の噴火で流れ出た溶岩が冷えて固まり、大谷川の急流が刻んで生み出した見事な自然の造形です。
急流の響きが不動明王の読経のように聞こえることから経文の最後の文句「憾満」を採って「憾満ヶ淵」と名づけられ、現在は含満ヶ淵と呼ばれています。

清滝ICを出て、国道120号線に合流します。
日光山内と奥日光の間に位置する清滝は、古河系の会社や工場があり、山の中の工業地域になっています。

日光ICを出て、T字路を左に曲がり、「日光インターチェンジ入口」交差点を右に曲がり「東和町」のT字路を左に曲がりま
す。右に行くと有名な日光杉並木があります。
これから日光街道を西北に進み、東照宮や輪王寺・二荒山神社のある日光山内へと向かいます。

JR日光駅
相生町の交差点を右に入ると、JR日光駅があり、宇都宮へ向かう日光線が出ています。
明治23年(1890)開業の駅は、JR東日本館内では最も古い木造建築です。宇都宮市で産する大谷石を使って建てられた旧帝国ホテルで有名な、フランク・ロイド・ライトの設計といわれています。大正天皇が休憩した貴賓室が、当時のまま保存されています。
国交省では「鉄道の日」行事の一環として「関東の駅百選」を設け、日光駅は平成9年(1997)に選ばれました。

東武鉄道日光駅
駅前にバスターミナルがあり、中禅寺湖や日光湯元温泉、霧降高原などへ行くバスが出ています。
東武鉄道日光駅は、東京と直接結ばれています。また、駅前には標高が表示してあり543mと記されています。
Q.東武日光駅で今までに販売された駅弁で一番高いものはいくらでしょうか?
ヒント@3万円 A7万円 B15万円 C20万円 

松原町交差点
松原町交差点を右折し、大谷川を渡っていくと、日光三名瀑の一つ霧降の滝や高山植物の宝庫、霧降高原へ行くことができます。

日光市街
両側の家並みが門前町らしい雰囲気が漂っています。
この道路は、以前市街電車が走っていました。開通は明治43年で、開通以来、日光参拝の足として親しまれていましたが、 昭和43年に自動車の交通の妨げになるということで姿を消しました。

西行戻り石
右奥に稲荷神社の中に西行戻り石があります。西行法師が日光を訪れ、この石の前に来たときに、石の上で籠を背負い鎌を持った小僧がいたのでどこに行くのかと尋ねると、「冬萌きて夏枯れ草を刈りに行く」と答えたのに驚き、この地で歌くらべは無理だと引き返していったという。

虚空蔵
御幸町交差点右奥には虚空蔵があり、鉢石の総鎮守。華麗な装飾の社殿が建つ。境内には樹齢350年のしだれ桜がみごとです。

入り江本陣
御幸町交差点を過ぎ右に、そば処魚要という店があるがそこが鉢石宿の入り江本陣だった。

鉢石
この辺りを鉢石といい、日光街道21宿の21番目・最後の宿場だったところです。
日光山内の入口に設けられた門前町です。
左手に日本生命と書かれた看板がありますが、その奥に、鉢石の地名のもとになった石があります。植木鉢の鉢に石と書いてハツイシと読みます。近くを流れる大谷川の川岸に、鉢のような形をした大きな石があることから生まれた地名だそうです。
この鉢石には松尾芭蕉が日光を詠んだ「あらたふと 木の下やみも 日の光」という句碑があります。

神橋
日光橋の左、上流に朱塗りの橋が架けられています。国の重要文化財に指定されている神橋です。
神橋は長さ27.82m、幅7.39m、水面よりの高さ10.6mの木製の橋で、橋桁と橋板の裏側は黒塗りで、ほかは総朱塗りという大変気品のある橋です。
その昔、日光開山の祖・勝道上人が、男体山を極めようと弟子達と共に、この地にやってきました。ところが大谷川の流れがあまりに激しく、渡ることができません。
そこで勝道上人が、護摩を焚き、お経を唱えて神仏を念じると、深沙大王が現れました。そして深沙大王が手にしておりました赤と青の二匹のヘビを投げますと、二匹のヘビはからみ合って川をまたぎ、橋のようになりました。
ヘビのウロコには山菅という植物が生えており、上人一行は滑らずに渡れました。
その伝説によって神橋は、「山菅の蛇橋」と呼ばれて、山梨県の猿橋、山口県の錦帯橋とともに日本三大奇橋のひとつに数えられています。
江戸時代は将軍と朝廷の勅使、それに行者以外は渡れませんで、その後もずっと一般の人は渡ることはできませんでした。

板垣退助銅像
神橋手前に、明治時代の自由民権運動の指導者として知られる板垣退助の銅像があります。
慶応4年に起こった戊辰戦争の時、板垣退助は官軍の指揮官として旧幕府軍と戦いましたが、旧幕府軍がこの地に立て籠もった時、日光山内を戦場としないために総攻撃をかけず、旧幕府軍を会津方面へと追い出しました。
そこで日光山内を戦争による破壊から守ったという板垣退助の功績をのちのちまで感謝するために銅像が建てられました。

天海僧正の銅像
右には日光の功労者の一人天海僧正の銅像があります。
天海僧正は家康の遺骨を静岡の久能山から日光へ移すことをすすめた人です。

日光橋
日光橋を渡ると日光山内です。

日光山内
東照宮・二荒山神社・輪王寺の二社一寺のあります一帯を総称して日光山内と呼んでいます。
山内は1200年前、勝道上人が開かれて以来、明治維新の神仏分離令が下されるまで、神仏習合の霊地として栄ました。
神仏分離令で山内は二社一寺に分割されましたが、山内に入ると今なお一つであるかのように感じられます。
古くから「日光を見ないで結構というなかれ」といいますが、日光とは山内のことをさしています。

太郎杉
神橋を前にし山内の入口に杉の古木が立ち並んでいますが、その中でひときわ高い杉の木は、太郎杉と呼ばれています。
太郎杉は東照宮創建以前のもので、二荒山神社の参道にあったものといわれています。
樹齢約520年と推定される太郎杉は、高さが43m、目の高さの部分の樹木の太さが5.7mという大きな杉で、国の特別天然記念物に指定されています。

杉並木寄進碑
この碑は、杉並木寄進碑です。ここに来るまで見事な杉並木を見てきましたが、この碑は、川越藩主・松平正綱と信綱の親子が、東照宮へ杉並木を寄進した記念碑です。

本宮神社
日光山内の入口近くにあります本宮神社は、滝尾権現・新宮権現と共に日光三社権現の一つに数えられたお社で、二荒山神社の別院となっています。
延暦9年(790)勝道上人がこの地に二荒山神社の本宮を創建しました。その後、二荒山神社本宮は現在の東照宮の西方へ移転し、こちらのお社は本宮権現と呼ばれるようになったといわれています。
現在の建物は、今から300年ほど前の貞享2年(1685)に再建されたものです。三社権現とは日光の地にそびえる3つの山をお祀りする権現様のことで、この本宮神社は太郎山を、新宮権現が男体山を、そして滝尾権現が女峰山をお祀っています。

四本竜寺
本宮神社の北隣には四本竜寺があります。四本竜寺は、今からおよそ1200年ほど前、天平神護2年(766)に、日光開山の祖・勝道上人が営まれた庵がはじまりとされるお寺です。輪王寺の元ともなったお寺です。

東照宮御旅所
寛永13年(1636)に東照宮造営時に建てられたもので、本殿・拝殿などは国の重要文化財に指定されています。
本殿には山王権現をお祀りしておりますので山王社ともいいます。
ここは春秋に行われる東照宮の大祭の時に、お神輿が渡御するところです。

輪王寺
東照宮・二荒山神社とともに日光山内を形づくっています輪王寺は、比叡山延暦寺・東京上野の東叡山寛永寺とともに天台宗の三大本山の一つに数えられています。
この輪王寺は、先ほどの四本竜寺を起源とする古い歴史をもつお寺です。四本竜寺から発展いたしました輪王寺は、その後、満願寺・光明院・輪王寺、ふたたび満願寺と名を変え、明治16年に輪王寺となり現在に至っています。
輪王寺の規模は大きく日光山内の入口付近から東照宮の表参道の両側にかけて、輪王寺を形成する一山15院の建物を配していますが、このほか輪王寺の管轄には四本竜寺・開山堂・徳川家光の廟所である大猷院廟・慈眼堂などがあります。

東照宮宝物館
(表参道から西へはいる下新道に面した浩養園の中)
輪王寺本坊の北隣には浩養園と呼ばれる庭園があります。
近代的な建築の館内には東照宮の二百数十点の宝物が納められています。そして、それらの収蔵品の約4分の1程度を、展示室で一般に公開しています。
展示されるものは時により替えられますが、東照宮のお祭りに使われるものや徳川将軍家の宝物など、見応えのあるものです。

二荒山神社
二荒山神社は東照宮の西側のうっそうと茂る木立の中に、華やかな東照宮とは対照的に落ち着いたおごそかなたたず まいを見せています。
二荒山神社の歴史は、今から1200年前の天応2年(782)勝道上人が男体山々頂に奥社を建立し、2年後の延暦3年(784)には中禅寺湖々畔に中宮祠を造営し、さらに延暦9年(790)に、本宮神社が神橋のそばに開かれました。
その後、弘法大師が滝尾神社を開き、さらに慈覚大師が新宮を創建しました。それ以後、本宮・滝尾・新宮を日光三社権現と総称してきました。それが明治4年の神仏分離令で新宮神社が二荒山信仰の総本山となり、二荒山神社と呼ばれるようになったのです。
二荒山神社の境内地は日光山内の背後にそびえる女峰山や赤薙山などから男体山それに奥日光の山々などを含めて約34平方qもの広大な面積があり、伊勢神宮に次ぐ広さです。
二荒山神社には三神が祀られており、主神の大己貴命は男体山の神様で、妃神の田心姫命は女峰山の神様、そしてお子神の味耜高彦命は太郎山の神様です。
二荒山神社は農業や福徳の神様として現在も広く信仰を集めています。、

大猷院廟
徳川家光は、慶安4年(1652)に48才で亡くなり、遺言でこの地に葬られました。そして翌年に大猷院廟の建設工事がはじめられ1年がかりで完成いたしました。
大猷院は東照宮をモデルに造られており、社殿の配置などは東照宮とほとんど同じですが、建設にあたって「東照宮をしのいではいけない」という家光の遺言を基本方針として建設されたため、東照宮と比べますとスケールも小さく簡素な造りとなっています。
けれども東照宮の造営に活躍した工匠たちが工事に当たり、その上、東照宮造営当時よりも建築技術が進みましたので、そのできばえはまことに素晴らしいもので、東照宮よりも優れた建築物だという意見もあるほどです。

日光山内を後にして
日光山内はいかがでしたか、はじめてきた方はその規模の大きさと豪華絢爛さに感心されたことと思います。
また、前に来たことのある人は、何度きても良いところだと、その素晴らしさを再確認されたのではないですか。
これよりバスは、日光山内を後にして、「いろは坂」を登り、中禅寺湖方面へと出発いたします。
日光山内の人工美を楽しんでいただきましたが、今度は日光の自然美の素晴らしさを楽しんでいただきたいと思います。

日光田母沢御用邸記念公園
大正天皇の避暑のために設けられた旧田母沢御用邸の一部を改修して博物館としたのです。
館内には日光国立公園の動物・鳥・植物・地形や地質の模型や資料が約2200点も展示されています。
その他美術工芸品や歴史と文化に関する資料なども陳列されています。また、大正天皇がお使いになられたお部屋なども公開されて、天皇のご生活の一部を知ることができます。
なお、旧田母沢御用邸は、明治31年(1898)に赤坂離宮から移された建物をもとにして建てられたもので、面積4500平方メートル(1400坪)、部屋数104室という大きな建物です。 大正天皇の皇太子の時代から、昭和20年の終戦まで、皇室の御用邸となっていたのです。

日光植物園
田母沢川を渡りますと左手奥には日光植物園があります。
日光植物園は正式には東京大学理学部付属植物園日光分園といいまして、東京小石川の東大植物園の分園となっています。
明治35年に高山植物の研究を目的として開設されたもので、昭和25年に旧田母沢御用邸の庭園の一部をあわせまして今日に至っています。
園内の面積は約1万平方mとややこじんまりした感じですが、ロックガーデンや水芭蕉池・菖蒲池・湿性植物のお花畑などがつくられており、なかなかバラエティーに富んでいます。
春から秋まで桜、石楠花、ツツジ、水芭蕉、菖蒲、ニッコウキスゲ、睡蓮など、次々と美しい花が咲き競いまして、訪れる人々の目を楽しませてくれます。
植物の種類は、高山や湿地帯に生息するものを中心として外国産のものを含めまして約310種もの植物が集められています。

含満ヶ淵
日光植物園の南側、大谷川に面した景勝の地に日光八景のひとつに数えられています含満ヶ淵があります。
大谷川の激しい流れによって削られてできた奇岩怪岩が変化に富んだ見事な眺めをつくっています。
淵の大きな岩には、弘法大師の投げ筆といわれる「憾満」という文字が刻まれておりまして、昔は「憾満ヶ淵」と呼ばれ、輪王寺の一院慈雲寺の寺域となっていました。

百体地蔵(化け地蔵)
大谷川の日光植物園の対岸に、およそ70体もの苔│むしたお地蔵さんが、川に面して並んでいます。
昔は百体もあって百体地蔵と呼ばれていたそうですが、大水で流されたりして減ってしまいました。
そのお地蔵さんには不思議なことがあり、行きに数えたお地蔵さんの数と、帰りに数えたお地蔵さんの数は、どういうわけか、どうしても合わないそうです。
そこで、何となく不気味なそのお地蔵さんたちを、化け地蔵と呼んでいます。

裏見の滝入口 (安良沢橋手前)
こちら裏見の滝入口から右手に2qほど入って参りますと裏見の滝と呼ばれる美しい滝があります。
裏見の滝は落差約30m、幅2mとさして大きな滝ではありませんが、その見事さから華厳の滝・霧降の滝とともに日光山名瀑のひとつに数えられています。
裏見の滝といっても別に暗いお話しが伝わっているわけではありません、滝の裏側から滝見ができたことから、その名前が付けられたのです。
けれども明治35年(1902)に岩が崩れて、今日では真浦から滝を見ることができなくなりました。
江戸時代、俳人・松尾芭蕉もこの地を訪れ、有名な「奥の細道」に裏見の滝のことをつぎのように詠みました。
「しばらくは 滝に籠もるや 夏(げ)の初(はじめ)」まもなく道路は二手に分かれます。この国道120号線の旧道は右手に、このバスは新道の清滝バイパスは左手に参ります。

清滝バイパス
(旧道からは左手、バイパスからは右手)
こちらの大きな工場は古河アルミの日光工場です。
この工場は、以前は足尾銅山で掘り出した銅鉱石を製錬する工場でしたが、昭和44年にアメリカの世界屈指のアルミニューム会社・アルコア社と技術提携し、アルミニュームの製造工場となりました。

古河アルミ日光工場
右手に大きな建物が見えてきました。古河金属工業日光電気精銅所です。
日光市は産業的には古河の町といわれているほどですが、その古河グループの工場や社宅などが集まっていますのが、ここ清滝です。

古河金属精銅
日光電気精銅所は大谷川の豊富な水力からえられる電力を利用して明治39年に創立されました。
現在の主要製品は銅線で、大規模な設備と高度の技術水準を誇っている工場です。以前は足尾銅山で採掘された銅鉱石を使用していたのですが、足尾銅山閉山後は、茨城県日立市や東北地方から原料が送られてきています。
また、こちらの精銅所構内で毎年開催されます盆踊りの「和楽踊り」は、日光の年中行事のひとつとして大変有名です。

日光のお土産
日光ゆば
日光下駄
日光彫り
日光茶道具
日光しそ巻き唐辛子

大谷川・大尻川│(バイパス) 合流点
バスは、大谷川の河原に沿ってつくられましたバイパスを進んでいますが、まもなく大谷川と大尻川の合流点があります。
大谷川は足尾町との境にあり細尾峠あたりから流れてきています。
手前川の大谷川の支流・大尻川は中禅寺湖から流れ出している川で、この川にあの有名な華厳の滝がかかっているのです。

122号線分岐点
左手、大谷川を渡っていく道路は国道122号線です。
22号線を進みますと日足トンネルがあります。その日足トンネルを抜けると、かって鉱山の町として知られた足尾町があります。
足尾から122号線をさらに進みますと群馬県に入り、渡良瀬川をせき止めた草木ダムや、富弘美術館などがあり、さらに進むと織物の町・桐生市方面へ行きます。

馬返
バスは、大尻川にそった国道120号線を中禅寺湖方面へと進んでいます。
まもなく奥日光の入口・馬返です。馬返という地名はその昔、馬に乗ってここまでやって参りました旅人が、ここから先の坂道があまりに険しく、馬ではとても登れないので、この辺で馬を返したところから馬返と呼ばれるようになったのです。
現在、馬返は第一と第二に分かれました「いろは坂」の分岐点になっています。

いろは坂
馬返しからいよいよ「いろは坂」を上がって参ります。「いろは坂」といいますと、昔からその勾配のきついこととカーブの多いことで、大変有名な坂で、難所の代名詞のようにいわれています。
48ものカーブがあることから、いろは48文字にちなみまして、「いろは坂」と名づけられたのです。
「いろは坂」は、現在は下り専用の第一いろは坂と、上がり専用の第二いろは坂の日本の道路に分かれて、大変スムーズに坂を登り下りできるのです。
第二いろは坂には20のカーブがありますが、第二いろは坂がつくられた際、第一いろは坂も30のカーブを28に減らして、第一・第二合わせて48のカーブとなりました。
そこで現在の「いろは坂」は、名実ともに「いろは48曲がり」ということになっているのです。

そして、カーブごとに「いろは」の文字の標識が設けられておりますので、それをたどっていくのも、「いろは坂」ドライブの楽しみのひとつです。
 「いろは歌」には「ん」がないので実際は「いろは47文字」という。その「いろは歌」は、「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ うゐのおくやま けふこえてあさきゆめみし ゑいもせす」。漢字を当てると「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見し 酔いもせず」となる。

明智平
(第2いろは坂を登りきったところ)
右に左に揺られながら登ってきましたが、この辺りで第2いろは坂の急な登りも終わりまして、景色も一段と開けてきました。 こちらを明智平といいます。
明智平からは標高1370mにあります展望台までロープウェイが通じています。展望台からの眺めは大変素晴らしく、正面に華厳の滝と中善寺、右手には男体山とその山麓をうねりながら下がっていく第1いろは坂が眺められます。
滝と湖が同時に展望できるのはここの展望台だけです。
また、中禅寺湖の向こうには日光白根の峰々が、反対に東南を振り返りますと関東平野の広がりまでもが見渡せるのです。

以前はこの明智平に来るのに、「いろは坂」の登り口の馬返しから通じていたケーブルカーを利用していましたが、第2いろは坂が完成し直接自動車で来られるようになりましたので、利用客が大幅に激減し、昭和45年に廃止になりました。

明智平の由来
明智平という名前は、東照宮を日光に造営することに力を入れた天海僧正が名づけたといわれています。
天海僧正は、織田信長を倒したあの明智光秀だという伝説のあるお坊さんです。
明智光秀は「本能寺の変」で織田信長を倒した後、山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れ、逃げる途中、京都郊外で農民に襲われて亡くなっています。
ところが、伝説によりますと、農民に殺害されたのは明智光秀の影武者で、光秀本人は比叡山に逃れたというのです。
その後、光秀は天海と名を変え、徳川家康にその能力を見込まれまして、家康の相談役となったのです。
天海僧正は家康・秀忠・家光の三大の徳川将軍の黒幕的存在となり、幕府の政治に多大の影響力を持ちました。元和2(1616)に亡くなった家康は、静岡の久能山に葬られましたが、その家康の遺体を、天海は強引に日光に移動させ東照宮を造営し、日光を徳川幕府の聖地としました。
その際、天海は自分のほんとうの名字の明智という名を記念として残しておきたいと思い、日光で最も眺めのよいこの地に、明智平と名づけたということです。

明智平を出て
明智平を後にしてバスは、明智トンネルを抜けていきます。
トンネルを出ますと、右側には深く切れ込んだ華厳渓谷が眺められます。
そしてすぐに白雲トンネルへと入っていきます。トンネルを抜けると、中禅寺湖はもうすぐです。なお、明智平から先は一方通行から相互通行になります。

茶ノ木平
(白雲トンネルから約500m)
頭の上をロープウェイが横切っています。あのロープウェイは中善寺温泉からバス左手の茶ノ木平とを結んでいます。
茶ノ木平は標高約1600mの高台で、中禅寺湖の絶好の展望台となっています。
中禅寺湖を眼科にして正面には男体山、その左手に広がる戦場ヶ原や奥日光の山々の大パノラマが楽しめます。

二荒橋
まもなく大尻川にかかっています二荒桟橋を渡ります。
橋を渡ると中善寺温泉に入ります。二荒橋の約200m上流には中禅寺湖の水の流れ出す出口があり、そこから美しい中禅寺湖が広がっています。
また、橋の右手には華厳橋が二荒橋と並んで架けられており、その約400m下流には天下の名瀑・華厳の滝が勇壮に流れ落ちています。
二荒橋を渡すぐにT字路になっており、右手に行くと華厳の滝観瀑台へ行きます。さらに進みますと第1いろは坂へ通じています。
左折しますと中禅寺湖の湖畔に出ます。
湖畔にそって国道120号線をさらに進むと戦場ヶ原を経て日光湯元温泉へと参ります。

中禅寺温泉
みなさん、お待たせしました。ようやく中禅寺湖の東の端の中禅寺温泉に到着しました。
この中禅寺温泉は、奥日光のレジャーの中心地として賑わっています。
この付近は、中禅寺湖をはじめ男体山・華厳の滝・二荒山神社中宮祠・立木観音など見どころの多いところです。

大鳥居
(華厳の滝方面から中禅寺湖へ向かう途中)
国道をまたいで建てられた大きな朱塗りの鳥居は、中宮祠の大鳥居です。
高さは15m、幅は20mもある巨大な鳥居です。昭和44年に完成したもので、大正5年に建てられた木製、昭和28年に建てられたコンクリート製に次いで3代目に当たる鳥居です。 鉄製の鳥居としては日本で最初のものだそうです。

巫女石
大きな鳥居の足もとの近くに、「巫女石」と書かれた小さな石があります。
その昔、男体山は女人禁制の山でした。その掟を破ってひとりの巫女さんが山に登ったところ、その巫女さんは哀れにも石にされてしまったということです。

中禅寺湖
奥日光の山並みに囲まれて、中禅寺湖が静かな湖面を広々と横たえています。
日光と聞けば、この中禅寺湖を思いだされる方も多いのではないでしょうか。
中禅寺湖は、別名・幸の海とも呼ばれ、日光を代表する景勝地として有名なばかりでなく、日本を代表する美しい山の湖として知られています。
中禅寺湖は東西に細長い湖で、東西の長さが約6.5q、南北の幅はだいたい2qほどです。
面積は11.5平方qで関東地方では霞ヶ浦・北浦に次いで3番目に大きな湖です。
湖岸線は屈曲にとんでおり、その周囲は21qあります。
深さは163mで日本で7番目に深い湖となっています。
中禅寺湖は、北側にそびえる男体山の噴火で流れ出した溶岩によって奥日光からの川の流れが堰き止められて誕生した湖ですが、湖底が華厳の滝の滝壺より約60mも深いことから、男体山が噴火する以前から深い渓谷だったといわれています。
この地方は大変な寒さとなりますが、中禅寺湖は氷に閉ざされることはありません。湖水が対流していることや強い風で耐えず波立っていることなどが氷が張らない理由です。また、中禅寺湖にはニジマスなどの魚が生息しています。

男体山
あちらに見えますのが男体山です。
中禅寺湖の北側に円錐形の整った姿を見せています男体山は、標高2484mのコニーデ型の火山で、日光を象徴する山であり、また、関東屈指の名山として知られています。
この男体山は日光の変化に富んだ現在の地形をつくった功労者のような存在です。男体山の噴火はそれまでの渓谷を堰き止めて中禅寺湖を生み、湖を埋めて戦場ヶ原を誕生させています。
男体山は別名・二荒山とか黒髪山とも呼ばれ、昔から神の山として崇められてきた山です。山頂には二荒山神社の奥社が、山麓には二荒山神社中宮祠があり、山全体が二荒山神社の神域となっています。
この山を開かれた勝道上人が山頂を究めたのは、今から1200年前の天応2年(782)のことです。その頃、男体山は補陀洛山(ふだらくさん)と呼ばれており、その補陀洛山が二荒山(ふたらさん)となり、その字を音読みしてニコウという地名ができたと伝えられています。
山頂からは眼下に中禅寺湖や戦場ヶ原を見下ろし、その周りの日光連山はもとより関東平野や秩父の山々まで望むことができます。

二荒山神社中宮祠
中禅寺温泉の町並みの西はずれ、男体山の山麓の中禅寺湖を見下ろす小高いところに二荒山神社中宮寺があります。
日光山内にある二荒山神社本社と男体山山頂にある奥社との間にあるところから中宮祠と名付けられました。
この中宮祠は、延歴3年(784)に勝道上人が二荒山(男体山)の冬季のよう遙拝所として、二荒山権現を祀ったことにはじまると伝えられています。中禅寺湖を見下ろす境内にあります主な建物は江戸時代に建てられたもので、本殿・拝殿・中門・透塀・銅でつくられた鳥居などは国の重要文化財に指定されています。

日本両棲類
右手に見えます赤い三角屋根のモダンな建物が、日本で唯一というサンショウウオの博物館の、日本両棲類研究所です。 国の天然記念物のオオサンショウウオをはじめ、15種の日本産(4種が日光国立公園内に生息)と生きた化石と呼ばれる英国産のファイヤーサラマンダなど、外国から集めたものを合わせ、約50種を飼育、展示してあります。
また、日光国立公園内に生息するカエルや爬虫類、イワナやサクラマスなどの淡水魚も合わせて見学できます。

菖蒲ガ浜
中禅寺湖の北岸に沿って走ってきましたが、まもなく菖蒲ガ浜です。国道120号線は右手にカーブするといよいよ戦場ガ原へと向かいます。
菖蒲ガ浜は、戦場ヶ原から流れてくる地獄川(湯川の下流部)の河口付近を中心にして広がる岸辺です。
砂浜の広がる美しい湖畔には、キャンプ場、遊覧船やボートの乗り場などがあります。また、ハイキングコースの基点にもなっています。

日光水産研究
左手には古くから養魚場の名で知られた日光水産研究所があります。正式には水産庁淡水区水産研究所日光支所といい、ミズナラの林の中に大小10種の養殖池があります。
それらの池には、ニジマス・ヒメマス・カワマス・ホンマスなどたくさんのマス類を養殖しています。
マス類の生態や成長の様子、習性、産卵能力などを調査観察し、品質の向上やふ化技術を研究しています。
この研究所で育てられたマスは、湯の湖や湯川・中禅寺湖などに放流されており、そのため全国に知られたマス釣りのメッカとなっています。

竜頭の滝
竜頭の滝は奥日光を代表する名瀑です。滝といっても、華厳の滝のような直下型の滝とは違い、湯の湖から戦場ヶ原を流れてきた湯川が、急傾斜の男体山溶岩の上を長さ約210mにわたって流れ落ちる優美な滝です。
かなり急勾配のため、激しい水音を立て、白いしぶきを上げて滑り落ち、大岩をかんで流れるその姿が、竜の頭のように見えることから、竜頭の滝と名づけられました。

柳沢林道入口
竜頭の滝を後にしましたバスは、急な坂を登って美しい森林地帯を進んでいます。まもなく左手に柳沢林道の入口があります。
柳沢林道は、中禅寺湖の西の端の千手ガ浜や、中禅寺湖の西隣の西ノ湖と呼ばれる小さな湖方面へ通じています。
林道の途中に、小田代ヶ原と呼ばれる草原があります。この林道は一般の車は許可がないと通れません。

小田代ヶ原
小田代ヶ原は、これから行きます戦場ヶ原の西隣に広がっています。
大昔は湖だったそうですが、湖の水が枯れて湿原となり、その湿原に周囲から土砂が流れ込むなどして、次第に乾燥化が進んで草原となったのです。
小田代ヶ原は、まもなく行きます戦場ヶ原ほど知られていませんが、高山植物の宝庫で、とくにノアザミがいっせいに咲く7月下旬や秋の草紅葉の頃はすばらしいものです。

戦場ヶ原
いよいよお待ちかねの戦場ヶ原にやって参りました。広々と広がる戦場ヶ原は、その風景の美しさと高山植物の宝庫として、日光を代表するところです。
平均標高1400m、周囲を奥日光連山に囲まれ、最長部で約2qという見渡す限りの草原が続きます戦場ヶ原は、昔は深さ100mもある赤沼湖という大きな湖であったそうです。
男体山の噴火によって湯川が堰き止められてできた湖でしたが、その後、男体山、白根山の活動による火山灰や、周囲の山から流れ込む土砂で浅くなり、そこに水中植物が腐って堆積して湿原ができあがったといわれています。
その湿原も、長い間に乾燥化が進み、現在では湿原から草原に変わろうとしています。
乾燥化の理由としては、自然の大きな移り変わりが第一にあげられ、そのほか湯川の水位が低くなったことや、道路沿いの側溝によって排水がよくなったことがあるそうです。春から夏にかけて、ワタスゲ、ホサキシモツケ、ノハナショウブ、ヒメシャクナゲ、ヤナギランなどが咲き乱れます。

【伝説にまつわる名所旧跡】
この辺りは、伝説にまつわる名所旧跡が多い。戦場ヶ原というと何か物騒な地名に感じますが、その昔、戦国時代頃の古戦場の跡のようですが、実はこの場所で右手にそびえる男体山の神様と上州の赤城山の神様とが戦ったという伝説から名づけられました。
また、湯川河口付近の菖蒲ヶ浜と立木観音(中禅寺)前の歌ガ浜です。
男体山と赤城山が、中禅寺湖の所有をめぐって戦場ヶ原で戦ったという有名な伝説があり、そのときに戦いの血で赤く染まったのが赤沼といわれています。
そして、勝負がついた場所が菖蒲(勝負)ヶ浜というわけです。
さらに、祝勝の園を開き、歌い踊った場所が歌ノ浜、今の歌ガ浜です。

光徳入口
まもなく光徳入口です。入口から右手に入りますと光徳沼の脇を通って光徳牧場・光徳温泉方面へ行き、さらにすすむと山王林道に入ります。
山王林道は山王峠を越えて鬼怒川の源流の川俣温泉へ通じている道路で、ドライブテクニックを要する山道ですが、その景色のすばらしさには定評があります。

【光徳沼】
光徳沼は周囲300m、深さ約1mという小さな沼ですが、美しさは奥日光のチャームポイントの一つです。
6月頃には沼を取り巻くズミの大群落がいっせいに白い花を咲かせます。
ズミはバラ科の植物で小さなリンゴのような実がなりますのでコリンゴとも呼ばれています。

【光徳牧場】
広さ3万平方mの小さな牧場ですが、白樺やズミの林に囲まれた美しい牧場として有名です。
新鮮な牛乳やアイスクリームが味わえます。また、乗馬を楽しむこともできます。

【光徳の由来】
光徳という地名は、日光の「光」の字と、この地を開いた徳三郎という人の「徳」の字をとってつけられたものです。

逆川橋
(光徳入口から国道120号線を100m位行ったところ)
渡ります橋は逆川にかかる逆川橋です。
逆川は右手前方の三岳から流れ出て、光徳沼を経て戦場ヶ原で湯川に合流します。
日光白根山などの高い山々の方へ向かって流れていますので、低い方から高い方へ流れるような錯覚をすることから坂川という名が付けられたといわれています。

湯滝入口
まもなく左手に湯滝入口があります。
入口からしばらくうっそうと茂る木立の中の道路を行きますと、豪快なしぶきを上げる湯滝があります。

【湯滝】
湯の湖の水が湯川となって流れ出るところにかかっている奥日光の名瀑として知られている滝です。
湯滝は長さ75m、落差45m、幅25mというかなりスケールの大きな滝で、白いしぶきがあたかも白い布をつり下げたように流れています。
湯滝の滝壺のすぐ目の前に観瀑台があり、とうとうと流れ落ちる様をじっくりと眺められます。

湯ノ湖
左手に見えてきました湖が、湯ノ湖です。
湯ノ湖は、中禅寺湖より約200m高い標高1478mにある高山湖で、南北1q、東西300m、周囲3qという小さな湖です。 右手前方にある三岳の噴火による溶岩が湯川を堰き止めてできた湖で、湖中につき出した兎島半島が、湖北部に小さな入り江をつくっています。
三方を山に囲まれ、湖の周囲にはカラマツ、ブナなどが生い茂り、白鳥やヤマガモが遊ぶ静かな湖です。
また、湯ノ湖は、湯川とともにマス釣りの名所として知られています。

兎島
左手、この辺りから兎島の半島となっています。
兎島は湯ノ湖の眺めの素晴らしいところとして知られており、湖畔を散策する自然研究路が設けられています。
兎島の付け根には大正時代の私小説家・葛西善蔵の文学碑があります。

【葛西善蔵】
葛西善蔵は明治20年(1887)に青森県弘前市に生まれ、昭和3年(1928)に亡くなった作家で、その生涯は恵まれたものではありませんでしたが、「子をつれて」・「哀しき父」・「おせい」などのほか、この湯元温泉に滞在して書いた「湖畔日記」などを残しています。
文学碑には「秋ぐみの虹きをかめば酸くしぶく タネあるもかなしおせいもかなし」という「湖畔日記」の一節が刻まれています。

日光湯元温泉
日光湯元温泉は、今から1200年前に、日光開山の祖・勝道上人によって発見されたと伝えら│れる大変古い歴史を持つ温泉です。
温泉源は温泉街北側の湯ノ平湿原一帯に20カ所以上あり、沸き出すお湯の量は大変多く、湯元温泉で使うばかりでなく、光徳温泉や中禅寺温泉へも配ってもまだあまる豊富さです。 お湯は、リューマチ・神経痛・婦人病・皮膚病などに効果があります。

日光の気象
日光は東京からわずか150qしか離れていないのに、北海道並の低温地帯で、関東の冷蔵庫などといわれている。しかし、ひと口に日光といっても、日光付近は海抜530m、日光で最も高い白根山は2578mで、標高差は実に2000m以上。そのため、同じ日光でも、地域によって気象が異なっているのを、あらかじめ知っておきたい。
日光駅がある市街地から馬返(標高832m)までは、いちじるしい気象の変化はないが、いろは坂を上りはじめると気温の低下が肌に感じられるほどである。
冬になると、いろは坂では、晴れているのに雪がちらつくことがある。山頂付近に降る雪が、風で運ばれてくるのである。この現象には「風花」というロマンチックな呼び名がついている。
さらに上がって明智平を過ぎ、中禅寺湖東側から華厳の滝周辺(標高1274メートル)にかけては、男体山の南東斜面という地形の影響をによって、霧の発生が多い。
もっと上がって、奥日光の戦場ヶ原(標高1394m)から湯元(標高1485m)にかけては霧はさほど多くないが、1日の中でも晴れ、曇り、霧、雨(冬は雪)など、急激に変化することがしばしばある。
特に梅雨の時期は、駅周辺から中禅寺湖東半分に雨が降っていても、露の影響をうけにくい中禅寺湖西半分から戦場ヶ原は晴れという日が多い。
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